top of page

黄さんとウィスキー。/Whiskey with Mr.Huang


#黄さんとウィスキー。黄さんと戰爭與和平紀念公園主題館。 

高雄市戰爭與和平紀念公園主題館は、黄旭初さんが設立メンバーである台湾の高雄旗津区にある記念館である。黄さんは以前出版社を経営し、飲食店も経営していた。 また以前、台湾の政党の広報もして、今は台湾高雄市の企業史、経済史の編纂に公務員として携わられている。 高雄市戰爭與和平紀念公園主題館は、かって日本が台湾を植民していた時代に、日本軍として戦争に送られた台湾人達のための記念館。

彼らは日本軍/国民党の軍隊/解放軍の軍隊として3種の軍服を着てそれぞれの戦地で戦った。「自分たちは、一体だれのために、命をかけて戦っているのか?」 という思いをもちながら青年のときからずっとどこかで戦いに参加することになり、歴史に人生を翻弄された方々。今もご存命の方もいる。    1度目は植民地時代、日本軍の兵隊として、日本政府から日本名をつけられ、日本国のために、戦った。  2度目は、日本の敗戦後、国民党の国府軍が台湾に入ってきた。国民党は兵隊が足りず(特に日本海軍の経験のある台湾人は重用された)、甘言を弄して志願兵を集めたり、だましたり、物理的にさらったりして国府軍に仕立てた。  さらに、日本の敗戦に伴い、日本軍で働いた経験のある人は弾圧されかねない雰囲気があり、身の安全をはかるため、国府軍に応募した人も多かった。 彼らはその後大陸(中国)に渡って、共産軍との戦いに投入される。徐州戦役で大敗した国府軍は、大陸を撤退して台湾に逃れることになる。このとき一緒に戻った人も多かったが、そうでない人もいた。  共産軍の捕虜になった人は、その後人民解放軍に参加させられ、逆に国府軍と戦うことになった。また海南島では国府軍の撤退時に約4万人の台湾兵は置いていかれ、飢餓と貧困の中悲惨な状態だった。   国共内戦が終了し中華人民共和国が成立した後も、そのまま大陸に残留し、台湾に帰りたくても政治状況から帰れない台籍老兵問題が発生した。  3度目、やがて朝鮮戦争が勃発すると、台湾軍は「中国人民志願軍」として最前線の北朝鮮に送られた。激戦だったため、戦死率も高かった。  生還した人々も、その後の文化大革命で日本兵だったこと、国府軍だったこと、台湾出身であることから黒五類に分類され、懲役、労働送り、国境送りなど迫害されることになる。  その後文革も終了し、台湾と大陸の間に交流が生まれ、老兵たちの親戚訪問が解禁となる。しかし、大陸出身の外省人老兵の返郷は容易なのに比べ、台湾出身の本省人老兵の返郷には厳しい制限が課せられていた。  その後紆余曲折を経て、やっと故郷台湾に戻ることができた元日本兵国府兵人民解放軍戦士経験のある台籍老兵もいたが、高齢のため現地で亡くなる人も多く、また諸事情から今更故郷に戻れない人も多かった。戻ったものの、周りの人が食べ物に毒を入れているのでは、と疑心暗鬼になり、精神的に病んでしまった老兵もいる。  今でも大陸に残留している台籍老兵は多い。 台籍国府兵の人数:第70軍団 8-9000人、第62軍団(独立95師団含む)3000人、21師団 800人、海軍技術員兵大隊 300人、その他(海外留用、青年軍、医務員)500人 台湾に戻った中国残留の台籍老兵 700人 中国残留のままの老兵 200人(1995年12月当時) 中ソ辺境に流された台籍老兵 25人(うち4名病死、1名自殺、2名帰台)(1994年12月当時) 設立のメンバーのひとりだった許昭栄さんは自身も台湾老兵のひとりで、カナダに亡命した後、ビジネスで財産をつくった。その後台湾にもどり、各地にいる老兵のために私財を使い、記念館をつくることにした。黄さんの友人でもあった。 2004年に募金とメンバー達の私財で土地に記念碑のみをたて整備工事がなされた。 その後2007年度11月に、公費が投入されるかどうかの審議の際、展示記念館などはもうけず自然公園のような形にすることが中国派の政治家の働きかけで議決された。 その後抗議するも、記念館の案は完全に白紙に。 許昭栄さんは、その議決に抗議し、記念館設置予定の土地で自分の車にのりガソリンをかけ、燃やし焼身自殺した。

車のナンバープレートから、警察がまず電話したのが、許さんの友人であった黄さんと、許さんの娘さん。部屋に行き、部屋のカレンダーをみると、焼身自殺した2008年5月20日のところに「決別の日(さよならの日)」とメモされているのを発見した。焼身自殺の直前まで、予定や約束などは、しっかりとスケジュール管理をし、まわりに迷惑もかけぬよう、身の回りの整理もすでにきちんと許さんは自分で行っていた。  その事件がきっかけになり、黄さんたち残ったメンバーの働きもあり、もう一度記念館をつくることになり、こうした台籍老兵の悲劇を伝える記念館が2009年5月に高雄市旗津地区にオープンした。日本の政治家もひとり、オープンの式典に参加した。 記念館に続く道は海沿いのサイクリングエリアにもなっていて、観光客や地元の方々に楽しまれている。

帰り道の海沿いで、30年続いていると書かれた家族経営の謎の屋台で、イカを買って、黄さん達と食べた。うまかった。「この店、絶対30年、税金おさめてないぞ、でもとりあえずこのイカはめちゃくちゃうまい」 といって黄さんは笑った。

そのあと車で黄さんの知り合いの店へ行き、海鮮料理の店でウィスキーをもちこんで、サメをたべた。黄さんは必ず、ウィスキーと水を1:1で割って飲む。

今後、戦争を減らすためになにが必要ですかね?と聞くと、黄さんは、 「資源の公平な分配が必要かな。」といった。 自身の事を、「酒を飲む前は理性の人、酒を飲んだ後は下ネタの人」になるという黄さん。「いい男」とはどんな人ですか?と聞いてみた。 黄さん曰く「責任をとれる男。酒を飲んで、麻雀をすればわかる。酒に強いかどうかではなく酒の飲み方、麻雀に勝つかどうかではなく、麻雀のうち方が大事なんだ。もう娘は亡くなっていないけど、もしも娘が彼氏を連れて来てたら、絶対、一緒に酒をのんで麻雀をしたなあ。」と、深い声で言った。 「いい女」とはなどんな人ですか?ときいてみた。 黄さん曰く「かしこくて、やさしい人。おたがいに楽しく言葉と感情のやり取りが出来る人はいいなあ。相手を理解してあげようとする人はいいなあ」とタレ目で黄さんは笑った。 

#黄さんとウィスキー。黄さんと鴨のみみ。

 黄さん常連の街角のにぎやかな海鮮料理店に、鴨のみみと、ウィスキーをもちこんでご飯をたべる。店の社長の声もでかい。

みみ(mimi)は中国語でおっぱいの意味らしく黄さんはうれしそうに「みみ、みみ!」と笑いながらごはんをたべている。ウィスキーと水を必ず1:1の割合で割って黄さんは飲まれるので、人生の後輩である僕がそれをおつぎする。黄さんの話を聞く。 ご自分のたったひとりの娘さんを娘さんが17歳のときに突然、亡くされてから、死にたくても死ねなくて生きる希望を失ったお話。日本と台湾の、社会と政治のお話。自分が、生かされている間の役割の話。日本人の元ヤクザの方が中国語もまったく話せないのに、台湾で風水の占い師になった話。いろんな話がでてくる。 「生きるのに無駄な経験なんてものはない。冗談、 喧嘩、皮肉、愛憎、悲哀、すべての言葉と感情のやりとりに意味があったりする。じぶんは無駄だと思った言葉のはしっこが人の心を動かすこともある。」

ウィスキーのボトルが1本、空っぽになった。 帰り道、黄さんは、車の中で、 「りきや、お前は生きててラッキーだぞ、今は高雄の夕日と月が、大きくてきれいな時だ。よくきたなあ。」 と、ぼそっと、おっしゃって下さった。

#黄さんとウィスキー。黄さんと父さんおでん。

  政治家や、政治家になろうとしている若手の立候補者、経営者などをたくさんご存知の黄さんは、みんなで食事を気軽にされるが、ほとんどそういう席で、あえてビジネスやお金の話はされない。商売やビジネスのことは、あまり考えないんですか?と、聞いてみた。  

「うーん、自分は単純な性格で、好きな人とは一緒に飯を食って酒をのみたい。気が合わない人とは一緒に遊びたくない。好きな人と飲む雰囲気が好きなんだ。人間には例えば、利益や金銭をもとめる商売人タイプや、自分の美的感覚の実現のために行動する文人タイプがいるよね。自分は文人タイプだね。楽しみがないと働きたくない。娘が亡くなってからもっと、そうなったね。楽しくないと。人生は短いから。昔、自分の持ってる建物の1階でおでん屋さんの屋台をした事があるんだ。娘もきてくれてね。店名は、《父さんおでん》ていうんだ。俺は料理するのがすきでさ、自分でシェフもやってたよ。」

そういって写真を見せてくれた。

台湾高雄の五塊厝の露店が立ち並ぶ、色んな食べ物の匂いが沸き立つ通りに、その、《父さんおでん》の店はあった。前に大きな木がある。横は臭豆腐の店でにぎわっている。

 今は黄さんの店は、空きテナントになっている。

 黄さんの知り合い曰く、娘さんのことを思い出すので今は黄さんは自分の所有物であるがそこには近寄らないらしい。

  黄さんは続けた。

「娘がいなくなったあと、もう全部、全部どうでもいい、と思った。何にもする気が起きなかった。直前まで普通で、娘は突然、倒れて目を覚まさなかった。だから、命の運のようなものは、ある程度決まっていて、努力しても意味がない、頑張っても意味がない、社会の言葉や理屈にはほとんど意味がない、と感じた。

  だけどその時に、自分とは少しちがう商売人タイプのひとたちの、欲を満たすために生きる力強い生命力みたいなものや行動力をみていて、すこしづつ、すこづつ、元気をもらったね。

 今は、どうしようもないこともたくさんある、でも少しでいいから、商売人であろうと文人であろうと自分のまわりの仲のいい人や、自分の生まれ育ったこの場所の役に立てたら、うれしいかな、と思ってる。」

黄さんは続ける。

「今は、お金をしっかりともらって堅実にはたらくこと、生きることは大切だと思うね。好きな事やりながら働く事も今はできる時代だと思う。俺も台湾の豆花でも売るかな?」

 黄さんは冗談を言って、笑った。

 ウィスキーを飲み干して、食事がおわると黄さんは支払いをさっとすませて、ご飯をよく、おごってくれる。おごってもらった後、「では僕が次あうとき、おごりますね。」というと、黄さんは「OK,OK!」と笑う。


bottom of page